森達也監督『fake』感想

 1月5日に近所の映画館で森達也監督のドキュメンタリー『fake』を観た。これは2014年に起きた「ゴーストライター事件」のドキュメンタリーだ。私は恥ずかしながらこの事件についてほとんど無知であった。そんな私がなぜこの映画を見ようと思ったかというと、せっかく近くの映画館でそういう面白そうなのが上映されているのだし、どうせ家にいたってそんなに有意義に過ごせないんだから、勉強するつもりで見てこよか、という気持ちになったからである。予備知識なしで理解できるんだろうかという不安があったのだが、思いのほか理解に苦しむところはすくなかった。

 さて、これから書こうとしていることは3つある。まず事件の経緯がひとつ、それと映画の要約、最後に私の感想だ。それらについて書いてみようと思う。まず事件の経緯だ。今から書く事をほとんどの方はご存じだろうが、私が感想を書きやすくするために書いておきたい。もっとも予備知識のない私がここで書く事件の経緯というのは、すべて映画から得られたものだ。だから、時系列に間違いはないだろうと思うが、もしかしたら重要事項が抜けているとかそういうことがあるかもしれない。もしそういうことがあれば、ご意見をいただきたい。

 事の起こりは2014年の2月某日に発売された文春の或る記事である。それは新垣隆の告白・・・佐村河内守ゴーストライターがいてそれが自分だと告白・・・だ。その記事により、マスコミが騒ぎ、その二人は謝罪することになる。新垣はこう言う。「私は佐村河内が全聾と思ったことがない」。その発言により、佐村河内は世間から謗り罵りをうけることになる。この映画はそれら一連の騒動についてのドキュメンタリーで、はじめ森は新見にも取材するつもりであったようだが、新見がそれを断ったことにより、結果として佐村河内のドキュメンタリーとなった。 

 さて、ここから要約に移る。映画は森が佐村河内の自宅を訪れるところから始まる。佐村河内の不満というのはだいたい「世間がしている誤解を解きたい」ということと「新垣への不信感」のふたつだったように私には思われた。誤解というのは、世間が佐村河内は耳が聞こえているのに聞こえていないふりをしていると思っている、ということだ。不信というのは、自分を裏切りいきなりに売名しだした新垣に対するものだ。

 まず、この誤解についてだが、診断書によれば彼は「感音性難聴」という病気らしく、この症状の説明が私には少し難しかった。分かり易い説明もあり、「リズムは分かるが音階が分からない」とか「健常者がなんとか聞ける音が1dBであるのに対して、彼がなんとか聞ける音が50dB」なんかは分かり易かった。その診断書には彼があくまでも難聴であり、聴覚障害ではないという記載もあった。問題はマスコミが佐村高知が「感音性難聴」だということををまるでとりあげずに「聴覚障害ではない」ということのみとりあげたことだ。そうしたばっかりに、伝言ゲームのように、世間には「ホントは佐村河内は健常者並に聞こえてるんだろう」と歪められて伝わり、難聴であることが伝わらなかった。

 つぎに不信についてである。佐村河内と新垣はこういう関係だ。佐村河内は彼の中に音楽のイメージができたとき、それを譜面にすることができないのだそうだ。だから、そのイメージを新垣に伝えて、新垣が譜面を作っていた。佐村河内は新垣に多額の報酬を与えていたという。そして、佐村河内は新垣がゴーストライターでいることに新垣が納得していると思ってたのに、なぜ裏切られたのかわからないと憤慨しているのだ。それについて、佐村河内の自宅へインタビューに来たマスコミ関係の外国人がこう言っている。「新垣は佐村河内のイメージを譜面にする作業をたくさんこなすうちに、佐村河内が指示するばかりで作曲した気になっていることに我慢がならなくなり、売名行為にでた」。なるほどなと思った。

 さて最後に私の感想だ。佐村河内の父が出てくるのだが、彼の言葉にグサッとやられた。「本気でなにかを訴えても、あーわかったわかった、と全く相手にされないのがつらい」。あと、佐村河内の自宅を訪問したフジテレビ社員の平身低頭のみの態度からくる胡散臭さとマスコミ関係の外国人の事実を探求しようとする姿勢が、私の中で対照的にうつった。最後に、先程の記述とかぶるが、このドキュメンタリーは新垣にも取材を申し込もうとしたが、彼がそれに応じないところから、インタビュー対象が佐村河内のみとなり、ずいぶん彼に肩入れしてるようにも見えた。しかし最後に森が佐村河内にこう訊く。「この取材に嘘はありませんか」。それに対して佐村河内が嘘かどうかはっきりさせないまま、映画は終わるのだ。それでその肩入れしてる感は消えて、うまいなと思った。

研磨

まずドリル砥ぎで難しいと感じたことについて三つ述べる。一つ目は先端角を120度で維持しながら且つ中心線を軸として線対称となるように切れ刃の長さと半角の大きさを調整することだ。二つ目は逃げ角をつくる際どの程度で御の字とするのかの見極めである。あまり大きくすると穴が楕円になるし、かといって小さくすれば逃げ面が刃先よりも先に相手物に触れてしまい穴をあけられない。三つ目は深穴加工に有効なN形状へのシンニングの場合に切れ刃の先端部を削らないように気をつけることだ。

次に突っ切りバイト研ぎで私がどのように手こずったのかを、簡単な形状を例として引き合いに出して述べる。例えば前面はそのまま何も手をつけずに、上面と下面を見たときにそれぞれの面において台形をつくるように砥ぐのみとする。このとき切り落とされるのは三角柱である。そうなると上面と下面における台形は同じ形であるから、気をつけるのは上面を見たときに二つある逃げ角の大きさを等しくすること一つだけであり、これは簡単である。いっぽうで今回のバイト研ぎはどうか。先ほどの例の箇所で切り落とされるのは三角柱を二つ組み合わせた複雑な物体である。前面における二つある逃げ角の大きさを等しくする事と、幅が互いに異なる台形を有している上面と下面における二つの逃げ角の大きさを等しくする事の、計三つを気にする必要がある。さらに横面をみたときにぼこぼことしていないように一度だけで綺麗にする必要もあり焼いてもいけない。合計五つの注意点があることになる。それに則した砥ぎ方の骨がつかめず何個も粗悪品を作ってしまった。

最後に芯出しについて分かったことについて述べる。たとえばバー材の太さが、外径を削った後に、チャック側のほうで0.200(mm)であり、芯押し台側で0.500になったとする。そうなると真上から見下ろされたバー材は削られる前は右上がりであったことが分かるので、チャック側を固定させて芯押し台側を右上から下に0.150だけ移動させればよい。

六代桂文枝襲名披露公演

2013年3月9日に私は亮介さんとともに刈谷市総合文化センターへ六代桂文枝襲名披露公演を見に行った。あまり満足のいくものではなく、いまでも漠然と不快である。今回のブログでの目的は不快の解消である。そのためには不快への過程を表現すればよい。なので私が考える不快への過程のモデルを提示してそれに具体的な単語をあてはめていくという形をとろうと思う。過程のモデルは「K(加害者)がH(被害者)への侮りやら思い上がりやら見下げやらによりてめえで不快になり、それをうけてHが言い返すことができればHは不快を解消できるが、できなければ不快になる」というものだ。最初に私がHになった時どう不快になったのか述べる。まず演者(K)にとっての不快を『あざとく客を笑わせるのがいけないことだと分かっていながらも窮地にたたされた時についつい「客はどうせあざとさをなんとも思わねえだろうよ」と高を括ってしまいそういう行動に出てしまうこと』とする。ご当地ネタとか楽屋話とかがそれにあたり、それが林家正蔵にとくべつ多かった。それをうけて私(H)にとっての不快の一つ目はその多くの侮りに対して怒ることはおろか無言でいることすらできずに周囲の客につられて愛想笑いをしてしまったことだ。チケット代7000円という大枚を叩いてるぶんなおのこと不快であった。次に私がKになったときについて述べる。私(K’)の不快の二つ目は亮介さん(H’)が当日いきなり彼のチケット代として7000円も請求されたらどんな気持ちになるか考えずその気持ちを軽んじてしまいずるずると支払額を教えることを先延ばしにしてしまったことだ。私(K’’)の不快の三つ目は公演日のまえに一度会おうという約束を亮介さん(H’’)と同年2月9日にてめえの方からしたにも関わらず、なにも言ってこないからといって破ってしまったことだ。以上。